健康で生活できる程度の収入がありさえすればそれで幸せ。

先日、ある若い女性からそう言われました。

環境の厳しさがそう言わせるのでしょうが、
残念な話です。

「せっかくアメリカに渡ってきたのに、
それでいいの?」と聞いてみました。

「えー、はじめのころは
自分でビジネスでも始めようと思ったりもしたのですが、
でも成功って人それぞれで、何もお金ばかりじゃないし……」

「それだったら日本にいたほうがよかったのでは。
つきたい仕事だって見つけやすいし、
ビザで苦労することも、言葉の問題も、
習慣の違いで苦しむこともないし。
そして、なにより自分ですべて慣れているうえ、
友達もそれなりにいるでしょうから。

日本では何をしていたの?
どうしてアメリカに来たの?
今のようになりたくてきたの?

自分を安売りしないでね」

その後、彼女いわく、
「勇気が湧いてきました」とのことでした。

自分の可能性に天井を設けると、その天井のおかげで、
それ以上の自分に秘められた可能性を見れなくなります。
信じられなくなります。
そして、自分の殻に閉じこもってしまうことになります。

しかし、その限界は、誰かが決めたものではなく、
本人が勝手に決めつけてしまったもの、ということならば大問題です。

卵や栗ですと、自然に殻が破ける仕組みですが、
人間のつくりだした殻は、
他人が手伝ってもそう簡単には破れないもので、
かなり面倒です。

しょせん人間は、
自分が信じられる生き方、可能性しか信じられないわけで、
自らが悲劇創造の責任者になってしまうようです。

健康で元気、とても重要なことです。
生活ができるだけの収入、とても切実な問題です。

でも、そういった最低線だけを求める生き方は、
本当に自分が生きたい生き方でしょうか。

もし、心のどこかに、「とんでもない」、そういう気持ちがあるとしたら、
正直にそれなりに願い、それなりに行動したらいかがでしょうか。

お忘れなく。
今何歳であっても、人生は1回限り。

あとで気づいて後悔の人生を送るよりも、
今気づき、それに正面から取り組む人生のほうが、
当座どれほど苦労が多くても、
生きたい人生を生み出すことを可能にするのです。

自分なりに満足できる人生、生きがいのある人生、喜びの待ち構える人生、
それはあなたの目先にある、ぜひそれをお忘れなく。

人はなぜそう簡単に
自分の人生に妥協してしまうのでしょうか。

自分の人生には、もっと素晴らしい人生が用意されている、
そういう事実を信じられないからのようです。

ギフトボックスの中には何が入っているかわからなくても、
ギフトだという喜びがあると、
パッケージを一つ一つ開けていくエキサイトがあります。

まさにエキサイトの瞬間です。
何が入っているか、それを知りたい強い欲望があります。
何かが私の見つけるのを待っている、
そういう確信があるからです。

もし、あなたが、自分の人生には素晴らしい将来が待ち構えている、
それが何であるかは開けてみなければわからない、ということならば、
「あっ、そー」と、冷静にかたづけられるでしょうか。

ギフトをもらっていることに気づかないから、それを信じられないから、
だから喜びもエキサイトも生まれてこないだけの話です。

世の中には健康でなくても素晴らしい人生を謳歌している人がいます。
五体満足でなくとも満ち足りた人生を送っている人はたくさんいます。

つまり、健康とは、あなたの人生を決定づける
絶対不可欠要素ではないことがはっきりしています。

もし、あなたが健康であるならば、それに感謝し、
そのぶん、より素晴らしい人生に
チャレンジしてもいいのではないでしょうか。

あなたは、健康を損なった人に比べ、恵まれているのです。
実にありがたいことです。

世の中には不慮の事故で死亡する人がいます。
しかし、あなたはそういう目に遭うことなく今生きている、
だったらすべきこと、できることがたくさんあるのではないでしょうか。

あなたの親は全力であなたを育てました。
並の人生を送ってもらうためではなく、
あなたらしい人生を送ってもらうために。

だったら、その気持ちに報いる生き方があっても
いいのではないでしょうか。

というより、そういう期待に対して、
「いいえ、私は生活できるだけの収入があれば、それでいいのです」
そういう言葉で済ませられるのでしょうか。

私たちは、与えられた命を預かっている一人の人間です。
ですから、自分に対する責任があります。

しかし、どうやら私たちにはそれ以上の責任があるような気がします。
親や祖先に対する責任、子供や子孫に対する責任、
なぜならあなたの命は誰かの支えで成り立っている可能性があり、
もろもろの成り立ちの中にあなたの命が存在するからです。

そういう認識があれば、
最低の生活を念頭においた生き方で満足なのでしょうか。
それだけしか希望しないのでしょうか。

今回は人生のギフトについて考えてみましょう。

私はネイティブアメリカンの考え方が好きです。
この世のものはすべて預かり物という発想です。

私有化という発想はなく、
前の世代から預かり、次の世代のために預かっている、
だから大切に守る、そういう考え方です。

祖先を敬い、感謝し、
ひたすら次世代のために、今あるものを大切に扱う、
そういう姿勢は、日本人の「物は大切に」に通じる考え方です。
消費賛美、私有化の考え方とは一線を画しています。

「いただきます」「もったいない」の発想は、
このネイティブアメリカンの発想と似ています。

もし、あなたのご先祖様が財産を残してくれたのであれば、
大切に扱うはずですし、
健康な身体を与えてくれたのであれば、
感謝したくなるはずです。

長生きの家系ということになれば、
ご先祖さまに、感謝、感謝です。

「おー、○○さんのお子さん、実はおたくのお父さんには
とてもお世話になりました」と感謝の言葉をいただけるようなら、
自分の親に対して誇リをいだき、
自分の心に誇り、自信、そして勇気まで生まれてくるのではないでしょうか。
まさに親からの素晴らしい贈り物です。

実は、親ばかりではなく、いろいろなソースが、
あなたに素晴らしい人生を用意してくれている可能性があります。

運命、宿命、家族、友人、知人、先生、同僚、偶然、
その提供主はいろいろです。

問題は、誰もあなたに、
彼らが提供する素晴らしい人生を示してくれないから
あなたが気づかない点にあります。
示してくれれば、あなたはきっと大喜びするはずです。

そういう目に見えない事実、
それをあなたは信じることができるでしょうか。

ギフトの特色は、送り主が自分の気持ちを形に表したいと願い、
その形を模索し、それを用意する点にあります。
ギフト自体の物的価値より、そういう気持ちが素晴らしいのです。

感謝されている、そういう感触がうれしくなるのです。
だからエキサイトするのです。

中に何があるかではなく、そういう場面がうれしいのです。
だからエキサイトするのです。

自分の人生には、素晴らしい約束、人生が用意されている、
そういう感触は、実はそういうことを指します。

あなたが他人を大切に扱い、一つ一つの仕事、できることに、
精魂を込めて取り組んでいたならば、
気づかないうちに、そういう環境をつくり上げているのです。

あなたに対する感謝や期待は、しょせん、あなた自身の
日ごろの生き方があってこそ生み出せるものにほかならないのです。

「そんな夢みたいな」、そう一笑に付しますか。
それとも、「もしかしたら」、そう考えますか。

もし、あなたが、「もしかしたら」、そう考えることができるならば、
それを信じたらいかがでしょうか。
なぜならそういう可能性が大だからです。

自分を正当化し、慰める行動は
広く行われています。

今はまだその時期ではないから……。
そういう経験がないから……。

年が若すぎるから……。
もう年だから……。

私は女性だから……。
金がないから……。

ビザがないから……。
英語が話せないから……。

学歴がないから……。
アメリカ人の友達がいないから……など。

そして、その正当化を信じ、
自分を抑圧してしまうようです。

しかし、もし、それらの正当化をちょっとの間忘れ、
自分のやりたいこと、好きなことに、とにかく没頭したら、
いったい何が起きるでしょうか。

自分の可能性を過大評価して、
思いきってチャレンジしてみたらいかがでしょうか。
それを考えたことがあるでしょうか。

もしかしたら、ビックリするような結果に、
あなたはビックリするかもしれませんよ。

どうです、あなた。
自分を安売りすることになる正当化を止め、
試してみませんか、
あなたの可能性へのチャレンジを。

(メルマガ『アメリカ発!「スモールビジネス」成功のセオリー』2015年3月9日発行 Vol.766より)